1894(明治27)年10月22日夕刻、庄内平野を激震が襲った。家々は一瞬にして崩れ落ち、追い打ちを掛けるように火災も発生、犠牲者は700人以上に上った。震災発生日の22日を前に、酒田市・日和山の震災記念碑を訪ねてみた。惨事を刻む石碑は緑に囲まれた目立たない場所にひっそりと佇(たたず)んでいた。あれから100年以上の時が過ぎた現代、記憶の風化は確実に進んでいる。
映画「おくりびと」のロケ地となった旧割烹(かっぽう)小幡のすぐ近く。赤い山王鳥居の西隣に細い道がある。ごつごつした石段を踏み締めると、緑に囲まれてその石碑は立っていた。「甲午震災記念碑」だ。
庄内地震の惨禍を後世に語り継ごうと、明治33年に建立された縦307センチ、横158センチの石碑。碑文はすべて漢文で、酒田浄福寺住職の菊池秀言が文章を練った。歴史地震研究会前会長の北原糸子は歴史地震第17号で、「人は逆境にある時は誰でも反省の念を持つが、順境に至ると安逸に走り、遂(つい)に昔の災難を忘れてしまう。これではまた再び災難を重ねることになる。備えあれば、憂いなし、後世長く忘れないためにここに記す」と現代語に直して紹介している。
様子、生々しく
庄内地震は、庄内平野東縁断層帯が活動して起きたと考えられている。政府の地震調査研究推進本部は2009年に公表した長期評価で同断層帯を北部と南部に区分。北部ではマグニチュード(M)7.1程度、南部ではM6.9程度の地震が発生すると推定している。
明治27年の庄内地震はM7。「ゴウゴウと遠雷がとどろくような音が西南方向よりしたかと思う間もなく、地面が一メートルも持ち上げられた。そしてドドーン、ドンドンと地面が落下して、ほとんど大部分の家屋が、この初震によって将棋倒しのように潰(つぶ)れてしまった」(酒田市史)「瓦で頭脳を砕き、柱の間に半身がはさまり、足を折り、腰を挫(くじ)き、死ぬ者、苦しむ者がいる。同時に火災がおこり天を焦がし一面が大火となった。親を扶(たす)け、子を救う暇もない」(両羽地震誌現代語訳、一部略)。庄内地震を記録するさまざまな資料には当時の様子が生々しく記されている。
「つめたい風雨のなかに地震で倒れた残骸が累々とあるだけ」「死しても手厚く葬られず、生きて飢えに泣く」。震災記念碑にも惨状が克明に描かれている。しかし、酒田市観光ガイド協会元会長の砂山弘は「震災記念碑は観光パンフレットにも記載されておらず、市民の間でも知っている人が少なくなってきた」と嘆く。「震災を忘れないようにと先人たちがせっかく建ててくれた大切な石碑。災害は過ぎてしまえば忘れてしまいがちだが、昨年の『3・11』で地震や津波に対する備えの重要性を痛感した。わたしたちは庄内地震のことを見つめ直すべきだ」
1894年の庄内地震で倒壊した酒田・琢成小。落雷のような音とともに地面が大きく揺れ動いた(写真集「やまがた100年」から)
子孫への思い
明治の人々が悲痛な思いで乗り越えた惨劇を、教訓としてしっかり受け継いでいく責務が、現代に生きるわれわれにはある。「人は順境に至ると、昔の災難を忘れてしまう」「備えを怠ればまた災難を重ねることになる」-。震災記念碑に刻まれた警句には、子孫への温かいまなざしと切なる思いが満ちている。=敬称略
防災意識の向上と減災を願う連載企画「山形の活断層」第5部は庄内平野東縁断層帯に焦点を当てる。
【ズーム】庄内地震 1894年10月22日に起きた大地震。震源は庄内平野北部とされ、死者726人、全壊3858棟、全焼2148棟という大惨事となった。発生時間は午後5時34分(庄内地震概報告)午後5時35分(山形県史)午後5時37分(酒田市史)と資料によって多少異なるが、多くの家庭で夕食の準備中だったことから大火となり、酒田の町は焦土と化した。
庄内平野東縁断層帯 遊佐町から酒田市東部、庄内町をへて鶴岡市に至る約38キロの活断層帯。活動履歴の違いから北部(遊佐~庄内)と南部(酒田~鶴岡)に分けられる。地震調査研究推進本部は、今後30年以内の発生確率を、北部が「ほぼ0%」、南部が「ほぼ0%~6%」と推定。北部と南部が同時に活動した場合、M7.5程度の地震が起きるとしている。
ひっそりとたたずむ震災記念碑。先人の思いをわれわれは語り継いでいかなければならない=酒田市・日和山
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る