マグニチュード(M)9.0の巨大地震が起きて以降も福島県内は余震が相次いだ。いつ起きるか分からない恐怖感、波打つアスファルトの道路…。神経は徐々にすり減っていった。「余震が日常だった。もう、ここには住めない」。家がきしむ音は今でもはっきりと覚えている。
■鶴岡に恩返し
同県いわき市に住んでいた志賀武尚さん(70)は2012年3月、被災証明書が発行されると、すぐに鶴岡市に自主避難した。同市を選んだのには理由がある。仕事で何度も訪れたことがあることに加え、「少しでも太平洋側を避けたかった」からだ。
市営住宅を借り、5カ月後には同市自然学習交流館「ほとりあ」のサポーターに登録。地域の多彩な動植物を見守りながら日々を過ごす生活を得た。津波や福島第1原発事故の影響が色濃く残っていたいわき市と違い、何より欲しかった平穏な日常がそこにあった。「自然豊かな鶴岡の魅力を地元の人に伝えたい。これが私の恩返し」
16年度末に福島県は避難先での借り上げ住宅の無償提供を打ち切る。多くの避難者が選択を迫られているが、福島に帰る考えはとうにない。このまま鶴岡市にとどまれば、一市民として家賃を負担することになる。「異存はない」。志賀さんは覚悟を決めた。
ただ、福島県の決定は仕事の都合などで家族が福島県と避難先に分かれ、二重生活を送っている人にとって負担増となることを心配している。「行政の財政負担が大きく、どこかで打ち切るのは仕方ないが、帰りたくても帰れない人への支援は今後も必要だ」と強調した。
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一方で、「帰りたくても、帰れない」事情から避難先での生活を続けている家庭もある。
同県相馬市から尾花沢市に自主避難した小沢華子さん(38)=仮名=は子どもの小学校入学や戻る家がなくなってしまった現状を訴えた。
夫が尾花沢市出身だったことから11年3月、「一定の期間」のつもりで同市内に自主避難した。現在は6歳の長男、1歳の次男と4人で暮らす。借り上げ住宅の無償提供が打ち切りになることが昨年11月ごろに分かり、長男が今年4月に小学校に入学する前に帰郷する予定で準備を進めようとした。しかし…。
■選択肢は一つ
避難生活をしている間に状況は大きく変わった。震災発生当時、住んでいた相馬市の借家は津波で家を失った人に明け渡してしまった。倒壊の恐れがあった同市内にある実家は解体し、現在は、さら地状態。新たに家を建てることを考えたが、周囲の道幅が狭く消防車が入れないため、建築許可が下りない。
借り上げ住宅の無償提供打ち切りが決まった影響で、県外に自主避難していた多くの避難者が相馬市に戻り始めており、同市内で新たな物件を求めるのは困難な状況だ。「もう、帰ることはできない」。残された選択肢は一つしかなかった。
先日、長男の入学手続きを済ませた。家族のため、この地で生きる。夫の両親や周囲の人も支えてくれる。その気持ちはうれしい。でも、望郷の思いを捨てることはできない。「いろんなことが重なりすぎて…。震災ですっかり人生が変わってしまった。やっぱり古里に戻りたい」。表情は笑顔でも、苦しむ胸の内が垣間見えた。
福島県いわき市から鶴岡市に自主避難している志賀武尚さん(左)。鶴岡市自然学習交流館「ほとりあ」のサポーターを務め、山野草の観察などを楽しんでいる