藤沢周平さん長女・遠藤さんが来社―作品愛した読者に感謝
今年没後20年を迎えた作家藤沢周平さん(鶴岡市出身)の長女でエッセイストの遠藤展子さん(東京都)が5日、山形市の山形メディアタワーを訪れ、寒河江浩二山形新聞社長と懇談した。遠藤さんは「あっという間に過ぎた20年。ファンの皆さんは、よくここまで(作品を)読み続けてくださった」と感謝した。
遠藤さんは、藤沢作品の編集を担当した元文芸春秋常務の鈴木文彦さん、夫で藤沢周平事務所代表の遠藤崇寿(ただし)さんと来社した。先月末に出版した「藤沢周平 遺(のこ)された手帳」に触れ、遠藤さんの母が亡くなった後の大変な時期に、藤沢さんが「小説を書かねばならぬ」と記していたことや、早い時期から「直木賞が欲しい」と目標にしていたことを紹介した。また「やりたいことは何でもやらせてくれ、困ったことがあるとすっと手を差し伸べてくれた」と父の思い出を語った。
懇談後、遠藤さんと鈴木さん、寒河江社長は「藤沢作品と山形」をテーマに鼎談(ていだん)した。
鼎談「藤沢作品と山形」―司会・山形放送アナウンサー青山友紀
今年は鶴岡市出身の作家藤沢周平さんの没後20年、生誕90年の節目に当たり、山形新聞は識者や作家、教え子らの寄稿や県内のロケ地を掲載し、山形放送は藤沢作品を朗読するラジオ番組「藤沢周平の世界」(山形新聞提供)を毎週日曜日に放送してきた。このたび、藤沢さんの長女でエッセイストの遠藤展子さんと、藤沢作品の編集を担当した元文芸春秋常務・鈴木文彦さんが山形市の山形メディアタワーを訪れ、寒河江浩二山形新聞社長(山形新聞グループ経営会議議長)と「藤沢作品と山形」をテーマに鼎談(ていだん)した。司会は山形放送の青山友紀アナウンサーが務めた。内容を詳報する。
青山友紀(以下青山) 今年は藤沢周平さんが亡くなって没後20年。3人にとって、2017年はどんな1年だったか。
遠藤展子(以下遠藤) 今も皆さんに本を読み続けていただいているのは本当にありがたいと思っている。山形放送にも朗読の番組で盛り上げていただくなど、うれしい1年だった。
鈴木文彦(以下鈴木) 年初に日本橋三越本店での没後20年記念藤沢周平展の監修をさせてもらった。藤沢さんの作品を読み返したりして、楽しい1年だった。
寒河江浩二(以下寒河江) 藤沢さんが亡くなられた20年前は鶴岡支社にいてがっかりした。取材を通して、地元にとっての大きさを実感した。あれからもう20年たつのかという気持ちだ。
青山 展子さんが生まれたのは昭和38年。この年から藤沢さんは手帳に自身の思いをしたためていた。この手帳を遠藤さんが初めて公開し11月に「藤沢周平 遺(のこ)された手帳」と題して出版した。
遠藤 手帳は15、16年前に見つけた。4年ほど前から本にしたいと思っていたが、なかなか進まずこの時期になった。(没後20年の節目に重なって)ちょうど良かったのかなと思う。
青山 15年前に発見した時のことを教えてほしい。
遠藤 最初は何の手帳か分からなかった。開いてみたら、母(悦子さん)が亡くなる少し前のことから書いてあった。
青山 展子さんが生まれて8カ月後に生みのお母さんが亡くなっている。
遠藤 母が亡くなった後も父が小説を発表していたことが不思議だった。どこに書く時間があったのかと思ったら、私は山形の母の実家に預けられていた。手帳を見て初めて知った。
青山 鈴木さんも手帳をご覧になった。
鈴木 展子さんが書いた原稿を拝見して驚いた。藤沢さんは「『溟(くら)い海』がデビュー作」と話されていた。だが調べると、展子さんが生まれて、お母さんが亡くなった昭和38年に短編を9本も書いている。どうやって書いたのか、なぜ書けたのか、それがわれわれには分からなかった。「遺された手帳」を読み、展子さんを鶴岡に預け、藤沢さんが一人東京で悲しみと孤独の中で小説を書いていたこと、悦子さんの思いを体現しようとしていたのだと初めて分かった。
青山 「溟い海」は昭和46年にオール読物新人賞を受賞し、その2年後に海坂藩を舞台にした「暗殺の年輪」で直木賞を受けた。この辺りのことは手帳にいろいろと書いてあった。
遠藤 題名が二転三転していて、何の作品なのか分からなかった。編集者の名前なども出てくるが、当時小学生だったので、鈴木さんに聞いたり、調べてもらったりした。
青山 昭和48年、寒河江さんはどちらに。
寒河江 米沢で勤務していた。最初に読んだ藤沢作品は米沢を題材にしたもの。平成8年から11年までは鶴岡支社にいて、作品を読んでいると「ここを描いているな」という風景がたくさん出てくる。満月に照らされた金峯山を眺めながら、藤沢さんの作品の主人公になったような気持ちになっていた。藤沢さんの作品を手にして、舞台になったと思われる場所を訪ね歩き、「藤沢周平と庄内」という本にした。
青山 小説の舞台と現在の地図とを重ね合わせるようにして詳細に書かれている。
寒河江 井上ひさしさん(川西町出身)が海坂藩の地図を描いていた。私もできるんじゃないかと思って描いてみると、井上さんの地図に1カ所間違いを見つけた。本当の五間川(内川)は東の方に曲がるが、井上さんの地図ではまっすぐ流れている。
鈴木 ひさしさんが藤沢さんにその地図の話をした時に、ご一緒していた。銀座のホテルから料亭「新喜楽」に向かう道すがら、ひさしさんが藤沢さんに「地図を作って海坂藩や『蝉しぐれ』を書いているんでしょう」と尋ねたら、藤沢さんは「いや、そんなのありません」と。それを聞いたひさしさんが「じゃあ、僕が描きましょう」となった。
寒河江 藤沢さんは鶴岡市史を読み込んでいた。
遠藤 私が生まれた昭和38年に撮られた母と私が一緒の写真があって、そのテーブルの上に鶴岡市史が写っていた。こんな昔から読んでいたんだ、とびっくりした。
寒河江 鶴岡の郷土史家が一生懸命藤沢さんに資料を送っていたようだし、藤沢さんも(鶴岡の)阿部久書店で古本を探していた。そうしたものを土台として普遍的な作品に仕立て上げたところが素晴らしい。地元にとっては実際の食べ物や方言、山、川、寺などが少し名前を変えて出てくるのもうれしい。
遠藤 小学校で講演したら父の使う庄内弁はもう古いと言われたそうだ。言葉に対してのこだわりはあった。鶴岡が好きだったのだと思う。田舎の親戚から送られてくる漬物やお米を「おいしい、おいしい」と言って食べていた。
青山 藤沢さんはお酒は。
遠藤 肝炎になる前は結構飲んでいた。これも手帳を見て分かった。仕事が終わってから編集者と新宿で待ち合わせをして原稿を渡し、囲碁を一局打って必ず飲んで、11時くらいに帰っていたようだ。
寒河江 非常に真面目で禁欲的に作品を書いていた印象がある。
遠藤 残されたノートを見て、書く時に意外と苦労していると感じた。「これはうまくいきそうだ」と書いてあると思ったら、翌日に「1枚しか書けない」とか。
鈴木 普通の作家だったらもっと苦しむようだ。藤沢さんの場合は、われわれにも苦しんだとか、ひねりだしたとか、書けなくて締め切りを伸ばしてくれ、というのは全くなかった。「遺された手帳」を拝見すると意外や意外。最初から準備していて、少し苦しむ時間を計算に入れて締め切りは守った、ということだと思う。
寒河江 引き出しが多かったのでは。
鈴木 それはあると思う。デビューする前に文章の技術を訓練精進していたので、そこを通り抜けた後は、自由に作品が生み出されていったのではないか。
寒河江 直木賞、芥川賞を受賞してから鳴かず飛ばずの人もいる。藤沢さんはそうではない。これは海坂藩というフィールドを見つけたからというのが一つではないか。
鈴木 遠藤さんから見せてもらった習作で分かったのだが、藤沢さんは納得のゆくまで何度も何度も書き直しをしていた。「暗殺の年輪」も、習作を拝見したが、冒頭から5枚目くらいまでを10回ほど書き直している。タイトルも主人公の名前もどんどん変えていた。その2年前に小説のコツをつかんだとおっしゃっていたのに、なおかつそれだけのことをする。あれだけ書いて、駄作が一つもない。これは本当に稀有(けう)な例だと思う。
寒河江 山形新聞に連載した「蝉(せみ)しぐれ」も、新聞と書籍化されてからの終わり方が違う。よくあそこまで推敲(すいこう)して書いたと感じる。
鈴木 「秘太刀馬の骨」もそう。「秘太刀馬の骨」の使い手が、オール読物に発表した時と、単行本にした時では違う。オール読物でいただいた原稿の展開で何の不思議もないし、私は良い作品だなと思った。だが、それから2、3カ月して単行本を作ることになった際、藤沢さんに電話をもらった。「大変申し訳ない。何度も読み返したが、使い手を(オール読物で書いた人物ではなく)道場主の矢野藤蔵にしないと納得できなくなってきた。書き直して単行本にする。ついてはオール読物の読者に対して大変申し訳ない」と。大作家がわざわざ若造の担当編集者に電話をかけてくる。ここまで読者のこと、編集者のことに気を遣われる作家はいない。お人柄を感じた。
青山 藤沢さんの作品の中には、展子さんがいたり、悦子さんがいたりもするのだろうか。
遠藤 私と今の母と父の3人全部が反映されているのが「『獄医立花登手控え』シリーズ」。私が中学、高校のころ、父は話をよく聞いてくれた。よく話を聞いてくれていいお父さんだと思っていたら、後で本を読むと、私が話した友達のような子が出てきて「これはネタにされた」ということがあった。登のおばは今の母にそっくり。登は誰なんだろう? 東北から江戸に出て来るわけだから、登もお父さんだ、と。観察力がすごいので、家族といえども観察され、ネタにはされている。
寒河江 「小鶴」や「梅薫る」など短編作品の登場人物に見られるのは、人生は現実をよく見て克服していかないといけないという現実直視の姿勢であったり、耐えるたびに人生が少しずつ見えてくるというような考え方。そういう形で論語の影響が見られる。
遠藤 地元の影響をものすごく反映させて、父の小説は出来上がっていると思う。
青山 展子さんは、たった一人の娘さん。どんなお父さんだった?
遠藤 普通のおじさん。親としては理想的。自分が親になってみて、父が私にしてくれていたことは親の我慢だなと思った。やりたいことは何でもやらせてくれ、困った時にはすっと手を差し伸べてくれる。私も息子にそうしたいが、つい先回りをしてしまい、「うるさいな」と言われたりする。 最終的には自分の息子に分かるようにという思いがあり、この本(「藤沢周平 遺された手帳」)を書いた。私も、父が書き残したものを読んで、より父を知るという経験をした。父のようにはいかないけど、「おじいちゃんはこんなだったよ」ということを残しておきたいと思った。今までそういうところは父に似ていないと思っていたが、今回初めて、「書き残す」という点で、ちょっと似ているのかなと思った。
青山 藤沢さんをもっと知りたい思いはあるか。
寒河江 もっと調べてみたい。例えば、藤沢さんは西郷隆盛の教えをまとめた「南洲翁遺訓」を読んでいると思う。でもそれを書いていない。当時の鶴岡の指導的立場の人たちは、南洲翁(西郷)の影響を受けている。藤沢さんは感化されつつも、そこから逃げたいという気持ちがあったのでは。だからあまり書かないのではないか。
遠藤 父は声を大にしていろいろなことを言わなかった。穏やかな人と言われるが、すごく筋が通っている。「かたむちょ(頑固)」なところがあった。(地元での)そういうことが影響して、父の性格ができているのかなと思った。
鈴木 何か思いはあっても、生な声で言うことを避けていた。城山三郎さんとの対談でも、二人がそういう話をしている。「旗振るな」と。自分たちが戦争に影響された軍国少年だったということをすごく心に持っていて、アジテーション的な、人を扇動するようなことをしない。そこで二人は共鳴していた。人に影響を与えるような言動というものには、神経質というか、一歩引いていたのではないか。それを小説などの形で感じてもらえるようにと考えていたのではないか。
寒河江 今年、長崎にある三菱の造船所を視察する機会があった。その中に、戦前に訪れた人たちの書き置きがあり、西郷南洲の五言律詩を引用した東条英機の一文もあった。当時、西郷の精神がアジテーションに使われたのではないか。だから、周平さんは南洲翁遺訓の話はあまりしないのではないかと私は推察した。
青山 最後に皆さんに伝えたいことは。
遠藤 父の小説は現代を江戸に置き換えている。サラリーマンでも主婦でも、働いている女性でも、小説の中に「私と似ているかも」という人物が登場すると思う。時代ものだからといって敬遠しないで、手に取ってもらえたらありがたい。
鈴木 藤沢さんが亡くなられてから20年たつが、幸いにも読者の方々に愛されて忘れられないできた。ここから5年、20年、50年と藤沢周平の小説、エッセー、考え方をつないでいきたいし、そのお手伝いをしていきたい。
寒河江 藤沢さんの作品から、一生懸命生きることの大切さを読み取ってほしい。今の若い人たちは、すぐに結果を求めがちだ。また、本質を突いたものを自分のものにしてほしい。藤沢さんは純文学と大衆文学の垣根を取り払った作家で、文章は今もって新しい。作品はこれからも読み継がれ、残っていくだろう。