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やまがた観光復興元年

第10部・全国とどう戦うか[2] 由布院に学ぶ(上)

2014/12/21 11:20
自然の中を散策していると、いつの間にか敷地内となる旅館も。土産物店(奥)など一般開放されている空間もある=大分県・由布院温泉

 多くの旅館が木々の中にたたずむ。カフェや食事どころなど宿泊者以外も利用できるパブリックスペースを備えた施設もあり、そこに出会いと交流が生まれる。由布岳の懐、田園風景が広がる盆地に位置する由布院温泉(大分県由布市)。全国あこがれ温泉地ランキング(じゃらんリサーチセンター)で初回から9年連続で首位を走る。抜群の知名度を誇るこの地も、四十数年前まで寂れた温泉地だった。トップブランドに押し上げたのは住民が主導した地域づくりだ。

 大分空港からバスで1時間、JR博多駅(福岡市)から特急で2時間。交通の便は決して良くない。人口も1万人余り(旧湯布院町)と小さなまちに年間約67万人(2012年度)が宿泊する。宿泊収容人数は推計7千人程度で、本県の蔵王温泉と同規模とされる。ただ、日帰り客を含めた年間観光客数は312万人(同)で、統計基準は異なるものの蔵王の3倍近い。

 数字からはにぎやかな地に見える。事実、二十数年前から続く由布院人気で客足が伸びると、中心部の湯の坪街道には土産物、飲食店が次々と出店。観光客が行き交う。しかし、温泉地全体としては静かな印象を持つ。それは、旅館が立ち並ぶ他の温泉街とは異なり、自然の中に15室程度の小規模な宿泊施設が点在しているからだ。自然と共存し、人を温かく迎えるこの地に、多くの人が魅了されている。

 そんな由布院がまちづくりの手本と評される理由は、隣の旅館と客の取り合いをするのではなく、互いに手を取り、地域で人を呼び込む姿勢だった。

1975年から運行されているつじ馬車。雄大な由布岳の姿を望める。ひづめの音も心地よい=大分県・由布院温泉

 由布院温泉(大分県)の地域づくりは、1970年代に始まった自然保護活動から発展する形で本格化した。旅館業、商業、農業関係者、町や農協婦人部、青年団など多方面の住民が協力し「次世代に誇れる地域」に向かって歩み始めた。県内にある別府温泉に団体が押し寄せ、全国でリゾート開発が進んだ時代。目指したのは“小さな別府”ではなく、自然との共生や出会いを大切にする地域だ。

 「心を一つにしようとすると難しい。同じ夢に向かい、それぞれ進むことにし、心を合わせた」と関係者は言う。町と連携し景観を守る条例も整備した。

■3人のリーダー

 協力態勢ができた背景には、もともと小規模旅館が多く、分宿しなければ団体を受けられないという地域事情があった。しかし最も大きかったのは、魅力あるリーダーの存在だろう。由布院温泉の御三家と呼ばれる亀の井別荘の中谷健太郎会長(80)の企画力、そのアイデアをまとめ、調整役を務めた玉の湯の溝口薫平会長(81)。さらに地域の若者に思いを伝え、動かした山のホテル夢想園の志手康二さん(故人)。いずれも旅館の経営者だ。中谷会長は「面白がって見せると、面白がりの輪がつながった」と振り返る。

 75(昭和50)年4月に旧湯布院町で震度5を観測した大分県中部地震が発生した時も、地域を挙げた事業を展開。「由布院が壊滅した」との風評被害で宿泊キャンセルが相次ぐ中、地震で関心が向いていることを逆手に、次々と新企画を打ち出した。7月には田園風景を楽しむつじ馬車の運行、8月にはクラシックに親しむ音楽祭、10月には声の大きさを競い、由布院牛を味わう「牛喰(く)い絶叫大会」を始めた。重ねて仕掛けることで、風評被害を払拭(ふっしょく)し、減少分を埋めるにとどまらない誘客に成功した。

■「常識」打ち破る

 90年には旅館や観光業者が協力して「由布院観光総合事務所」を開設。加盟事業所が売り上げの1万分の5ずつを納めて運営するシステムにし、互いの売り上げを公開した。「旅館が最もできなかったこと。それを打ち破らなければ何かを一緒に成し遂げる信頼関係はできない」と溝口会長は理由を語る。さらには、各旅館の部屋のしつらえや料理も互いに見せ合う。「隠しておくと、これでいいんだと成長が止まる。でも見せたら、さらに上にいかないと他と横並びになる」(溝口会長)。磨き上げの循環につながっていった。

 旅館同士が互いを知った結果、自社の客に「あの旅館もお風呂がすてきですよ」「あそこはこの料理がお薦め」と他を紹介する土壌も育った。多様な食を味わえるよう、連泊客に他の旅館で夕食を提供することもある。地域で客を飽きさせず、取り込む仕組みだ。

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