第2部・引きつける魅力(2) 高畠に生きる移住者たち~幸せの羅針盤|山形新聞

幸せの羅針盤

第2部・引きつける魅力(2) 高畠に生きる移住者たち

2020/12/5 08:28
26年前に大阪から移り住んだ秋津ミチ子さん。雨の日は畑で育てた紅大豆の選別に忙しい=高畠町上和田

 「高畠に恋煩いしたのよ。大阪に帰っても、体の中に風や空気が残ってるの。それって恋やろ?」

 まきストーブで暖を取りながら、秋津ミチ子さん(62)はけらけら笑った。大阪から高畠町に移り住んで、27回目の冬になる。

 転機が訪れたのは35歳の時。新聞の隅に「まほろばの里農学校」の記事を見つけた。有機農業で有名な高畠町で農村体験ができる。好奇心の赴くまま、入校申込書に「他の生き方を探してきました。なぜ農業かと問われると、それが一番人間らしい暮らしと思うから」―としたためた。

一貫した姿勢

 1993年8月、秋津さんは全国各地から集まった20~60代の25人ほどの男女と高畠で1週間を過ごした。そこで出会ったのは、命や環境について熱く議論し、自らの信念を有機農業を通して実践する「かっこええおっさんたち」。日常生活の中でも、あらゆる命を大切にする一貫した姿勢は、大きな衝撃だった。「この人たちみたいになりたい」。翌春、高畠の田んぼで堆肥をまいていた。

 「今まで土地に憧れてたけど、私の生き方を決めるのは人なんや」。秋津さんを引きつけたのは他でもない、命と真剣に向き合う人たちの生き方だった。その中心に、高畠の有機農業運動をリードしてきた星寛治さん(85)の姿があった。

何があっても

昨年から有機農業に挑戦する中西宏太郎さん。雑穀を手に「思い通りにいかないのが、俺は面白いっすね」=高畠町中島

 この強烈な「磁場」は、今も人々を引きつけてやまない。東日本大震災後、福島県南相馬市から移り住んだ中西宏太郎さん(39)もその一人。自動車整備士から転身し、昨年から雑穀と野菜を無農薬、無化学肥料で育てている。

 3人姉妹の父。原発事故後、放射線量検査で次女の数値が高いことが分かり、強烈な不安に襲われた。どうすればいいか妻と一緒に考えた末、たどり着いたのが「食」だった。「子どもたちに安心安全な食べ物を食べさせたい」。星さんらが守ってきた大地で、有機農業を極めると決心した。

 だが、虫や草との闘いは想像以上に過酷だった。困難に直面したとき、本で読んだ星さんらの実践が心の支えとなった。「何があっても勉強。ずっとやり続けることに意味がある」と、自分に言い聞かせる。

 中西さんは畑の土をつかみ、前を向いた。「この土地も、かつては農薬を使ってた。だから微生物をちゃんと生き返らせて、地球に返したいんです」

 磁場の中心にいるのは今もなお、星さんだ。先駆者の根底に流れるのは、有機農業で体現してきた「命をいとおしむ心」。人と人、人と自然が互いを思いやりながら生きる世界を「本当の豊かさ」とみる。

 半世紀近く「持続可能」な農業を実践し、その理念を伝道師のごとく日本中に広めてきた星さん。SDGs(国連の持続可能な開発目標)について尋ねると、「よく分かりませんね」と笑い、続けた。「命を育む営みを、小さな実践者になって足元から積み重ねる。地球や人類社会全体の運命を考えながら、持続可能な在り方を追求していくことこそが、これからの時代を生きる鍵ですね」

 人と自然が共生する社会の実現は、SDGsの目標15「陸の豊かさも守ろう」に当てはまる。具体的な行動目標には、「生物多様性を含む山地生態系の保全を確実に行う」などが盛り込まれている。「まほろばの里農学校」を運営した有機農家らでつくる学習グループ「たかはた共生塾」(星寛治塾長=当時)は、第49回「山新3P賞」の平和賞に選ばれた。

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