本紙記者、南極へ・白瀬矗の足跡を追う第1部(下) 性能高め、現在4代目

2023/11/20 11:51
第1次南極観測隊を乗せた観測船「宗谷」。都内の施設に係留・展示されている

 白瀬矗(のぶ)の南極探検から44年後の1956(昭和31)年、第1次南極地域観測隊が東京・晴海港を出発した。極地を目指した冒険は国際共同下の観測へと様変わりし、「探検船」は「観測船」に変わった。現在の「しらせ」は観測船としては4代目だ。代を重ねるごとに性能が向上し、人員や物資の輸送のみならず、観測隊の活動に欠かせない存在となっている。

 第1~6次隊員を乗せた初代観測船「宗谷」は2736トンで、白瀬が乗った約200トンの「開南丸」の10倍以上の規模だ。それでも第2次隊では昭和基地に近づけず、越冬中だった第1次隊は収容できたが、15匹のカラフト犬は置き去りにせざるを得なかった。翌年のタロ・ジロの生還は大きな反響を呼び、映画「南極物語」が生まれた。

2代目の観測船となった「ふじ」

 後継の「ふじ」(5250トン)は第7~24次、3代目の旧「しらせ」(1万1700トン)は25~49次まで活躍した。現在の新「しらせ」は1万2650トンに上り、長さ138メートル、幅28メートル。海上自衛隊員約180人が運用している。プロペラを2基備え、ヘリが3台収まる格納庫や4基のデッキクレーンなどもある。

 海上自衛隊では「しらせ」を「砕氷艦」と呼ぶ。文字通り、厚い氷を連続的に割りながら前進可能で、さらに乗り上げた船の重さで砕く「ラミング」を繰り返して航路を切り開く。生活排水を船内の装置で処理するなど、海洋環境に優しいエコシップでもある。

 開南丸は南極探検から戻った後に座礁沈没してしまったが、宗谷とふじ、旧しらせは東京などでそれぞれ保存展示されている。現役を退いた後も南極観測の「先輩」として活動の意義を国内外に広く発信し、観測隊を支えている。

子どもの熱意「しらせ」継続

 旧「しらせ」が2008年に引退するタイミングに合わせ、後継船の船名が公募された。ただ、現存する船名は選考の対象外としたため、本来、同じ名前を付けることはできなかった。

 政府の南極地域観測統合推進本部によると、約1万9千件の応募のうち、白瀬矗が命名した南極の地名「大和雪原」にちなんだ「ゆきはら」が、約770件で最多だった。選考外だった「しらせ」も約240件寄せられ、9位に入った。

 その後、白瀬の出身地・秋田県にかほ市の小学生らから船名存続を求める手紙が約700通集まった。子どもの熱意に押され、同本部は急きょ、手紙の数も選考の際に追加。合計すると「しらせ」が1位となり、知名度の高さも踏まえて船名が引き継がれることになった。

 海上自衛隊は砕氷艦の名称を名所旧跡から取るとしている。そのため、「しらせ」は白瀬の名字ではなく、昭和基地の近くにあり、白瀬を記念して命名された「白瀬氷河」から名付けられている。

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