2024年2月26日(月)
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東日本大震災から10年「あの時、県民は」

寄り添う「ぶんちゃん」取材班
あの時、県民は

 東日本大震災の発生から、来月11日で10年が経ちます。みなさんは「あの時」に何を思い、「その後」をどのように過ごしてきたのでしょうか。一人一人の経験が次の世代への大切な教えになります。
 5回シリーズの紙面企画「あの時、県民は」では、証言を集めながら震災発生時の状況を紹介してきました。「寄り添うぶんちゃん取材班」では、震災の記憶を風化させないためにも、さらに多くの経験談を募ります。寄せられた内容は、山形新聞のホームページ「やまがたニュースオンライン」の特設コーナーで紹介し、後日、紙面での掲載も考えています。

質問項目
  • (1) あの時、どこで何をしていましたか。
  • (2) 大きな揺れを感じて、何を思いましたか。
  • (3) 地震発生後に困ったことはなんですか。
  • (4) 災害への備えなど、震災後に変化はありましたか。
  • (5) 震災を経験し、どんな教訓を伝えていきたいですか。
  • (居住自治体、年齢、性別、職業)
  • (1) 仕事は休みで自宅リビング、大きな揺れに飾っていたプラモが崩れ落ちた
  • (2) 「ただ事ではない」とテレビを報道に変えた。この時間からどうするか明日以降はどうなるか?と仕事のことを考え始める
  • (3) 幸いにも電気水道も異常なし。職場では営業停止、ドライバーたちは3.12はお預かりしたはずの荷物を返品する作業をし、3.13からは自宅待機。私だけ留守番の出勤をした。数日するとガソリンが入手しにくいことに直面。実家の酒田は停電もあり、母が『鶴岡に行けばガソリン買えるって?』というが「そういう行動が町を混乱させとるんだ!15リットルのために出歩くな!」と嗜めた
  • (4) 防災グッズを買い揃えたし、水缶詰めレトルトの賞味期限を見るためにも半年に1回チェックしてる
  • (5) まずは自分の身は自分で守ること。備えは自分でできる。
  • 鶴岡市 40代 男性 会社員  
  • (1) 自宅でパソコンを、そして、用事があり出かける支度
  • (2) 初めて聞く、携帯の緊急速報の音、消えたTV、早く外に出なければ、ドアが開かなくなると
  • (3) 実家に買い物を届ける約束、停電の中、時間がかかりながらも行きました。停電が1番困り、自宅は、そのために断水に水がないことに、困りました。
  • (4) 必ず、懐中電灯、靴下、スリッパを枕元に小屋には、水のペットボトルを携帯は、常に充電
  • (5) 自分のことも大事ですが、人の手助け、人に寄り添う大切さ。コロナのために、「絆」が細くなり、繋がるのが難しくなりましたが助け合う心、声かけ合うこと伝えていきたいです。人それぞれの震災がありますが、助けてくれた方々に感謝!!!!!あの、震災の3ヶ月後、乳がんの手術をして元気になったからこそ忘れられない3・11になりました。
  •  
  • (1) 会社で仕事をしていた
  • (2) 家族、子供の安否
  • (3) ライフラインの停止(特に電気)。暖が取れない状況になった。たまたま食料買溜め後で、ガソリンも満タンだったので暫くは安泰だった。しばらくしてからガソリンスタンドの友人が給油してくれた。
  • (4) 保存食(缶詰や乾麺)や飲水は、日頃から消費しては買い替えて常にある状態にしている。電気が必要ない灯油ストーブを購入保管してある。住宅を新築の際、オール電化ではなく、ガスにした(震災の際ガスの復旧が早かったから)。トイレはタンク式にした。ランタンや懐中電灯はいつでも使える場所に置き、電池在庫は切らさない。通信が混雑する際、居場所だけ送れる方法を家族で周知している。
  • (5) その日の為に備える事は大事だが、日常的に生活の中で循環させながら備えられるようにする近所の人、友人、知人とのコミュニケーションを日頃から取る(助け合い)
  • 山形市 40歳 女性 会社員  
  • (1) 当時、私は、地震発生時間にR112を走行中でした。ラジオで、「地震発生で運転中の方は、停車して下さい」のアナウンスを聞いてはいましたが丁度、交差点の右折ラインに入ってた私は、そのまま右折し、藤島へ向かう橋を渡ってしまいました。橋は、大きく左右に揺れているのに、渡りきり、ふと実母が一人で家にいる事に気づき今、渡ってきた橋を又、戻りました。今、思えば揺れる中を、橋を渡り、下の川に落ちる可能性もあったのにと自分のとった行動にゾッと!しました。
  • (2) 橋の上を走行中でしたが特に危険を感じる事なく「無」でした。今思えば、あの大きな橋が左右に揺れる事は、異常だったのに危険を感じなかったのは何が起きてるか?自覚がなかったのではないかと思います。
  • (3) 実母の安否を確認しようと携帯電話をかけましたが繋がらなかった事です。
  • (4) 情報収集の為車を運転中には、必ずラジオをつけて走行するようになりました。
  • (5) 「揺れたら停まる!ラジオ等で情報収集し、安全確認をし行動する。又、今、起きている事を事実と受け止めて冷静な判断をする」「慌てずに、行動する」
  • 鶴岡市 50代 女性 パート勤務  
  • (1) 高1の息子が入試で休みだったので一緒に置賜の祖母宅に行き、5時から歯科医の予約があったので帰り支度を始めてました
  • (2) 外には雪があり屋根からの雪が落ちてきて外に出るべきか迷った
  • (3) ガソリンが給油できないこと。親戚と連絡がとれないこと。同居していた健康な姑(70代)がとても不安がり家事も手につかなくなったこと
  • (4) いつもより少し多めに保存できる食品はストックすること。ペットボトルの水の買い置きや乾電池の買い置き。ガソリンや、ホームタンクの灯油は半分になったら給油。充電式のものはなるべく常に充電しておく。戦時中を生きてきた人の暮らしの知恵を頭にいれておくこと。近所の人と仲良くしておくこと。
  • (5) あまり報道されていませんが、地震のときに屋根に積雪があると一気に落ちてきます。玄関などを開けたら、慌てて外に出ず落雪がおさまるまで様子を見ること。高齢者の暮らしの知恵は頭にいれておくこと。(石油ストーブがあればガスが使えなくても煮炊きできるので用意しておく)
  • 山形市 50代 女性 パート  
  • (1) 仕事で、お客様のお宅に訪問中でした。とても大きく長い揺れでしたので、お家の棚など倒れないようにおさえていたりしました。
  • (2) 山形は比較的災害も少なく、これまでも思った以上に被害が出ることもなかったので、最初はいつものことのように感じていましたが、揺れも酷くなり、またとても長い時間に感じられ、段々と不安になってきました。
  • (3) 津波の被害に遭われた被災地の方からすれば、それでも小さい範囲で済んでいると思いますが、電気と水道が止まったこと。あとはガソリンスタンドでの給油に難儀しました。
  • (4) ローソク始め消耗品は多目に購入したり、反射ストーブを購入したりしました。あとは、お風呂のお湯はすぐに捨てない、車の購入も燃費が良い車種を候補に入れる等々ありました。
  • (5) 備えあれば憂なし。この先哲の教訓は必要だからこそ今日まで残ってきたものと感じます。また、昨今の様々な情勢を鑑みるに、何よりもみんなが生き残るために必要なことを、いざという時に活かせるようにしなければいけないと思います。
  • 山形市 30代後半 男性 サービス業会社員  
  • (1) 震災当時は、主人の転勤先の茨城県に住んでました。
  • (2) 子どもたちが学校だったので、まずは大丈夫なのか不安でした。これからどうなるんだろう?という心配ばかりでした。
  • (3) 道路の凹凸、ガソリン不足、2ヶ月近くも断水に悩まされました。
  • (4) 地震発生後は、まずは大きいペットボトルに貯水するようにしてますが、カップラーメンや保存の効くものは確保しています。
  • (5) 自分はまだしてませんが、ライフラインが途絶える前に食品や水などの確保とヘルメットなどの身を守るものの準備しておくことを子どもたちに伝えていきます。
  • 酒田市 40代 女性 主婦  
  • (1) 会社
  • (2) 初めての大きな地震で情報もなく仙台にいる子供は大丈夫だろうかと思った
  • (3) 帰宅するにあたり電車が止まった事。停電で暖を取れなかった事。連絡を取りたくても携帯が繋がらなず不安が増した事。
  • (4) 節電、懐中電灯、カセットコンロとガス、非常用食品の購入
  • (5) 津波に対する意識。携帯の充電は毎日する。安否確認
  • 南陽市 64歳 女性 会社員  
  • (1) 夫と沖縄の首里城にいました。
  • (2) 沖縄にいたので、揺れは体験していません。首都圏に住んでいる母からの電話で地震があったことを知りました。テレビでお台場あたりの火事の様子が報道されていたらしく、それを聞いて驚き、不安になりました。その後電話はこちらからかけても通じなくなりました。
  • (3) 当初は3月11日に那覇空港から羽田空港に飛行機で戻る予定でしたが、おそらく欠航になるだろうと考え、翌日に予約を取り直しました。その上で、那覇のホテルに一泊追加で泊まることにしました。インターネットや電話を使って3月11日の宿泊の予約をしました。早めに動いたので飛行機とホテルは取れました。
    その頃は仕事の関係で夫と離れて暮らしていました。東京の部屋は戻ってみたら、冷蔵庫の上にあった電子レンジが落ちそうになっており、押し入れの中身は畳のうえに投げ出され散乱し、相当大きな揺れだったのだろうと感じました。最上階5階の部屋だったので地震発生時に東京の部屋にいたら相当怖かったと思います。都内のスーパーは棚がガラガラで驚きました。知り合いの中には、帰宅困難者になって都内から千葉の家に歩いて帰ったという人もいました。
    山形の部屋のほうは、壁にヒビが入っていました。ヒビは業者の方が修理をし、ちょうど修理が終わったと思ったら、4月11日にもう一度大きな地震がありました。最終的にそのアパートは、地震の影響なのか数年後、上の階で水漏れが発生し、取り壊されました。
    地震の約10日後に結婚式を予定していて、予定通り実施するか迷いました。都内で行ったので、計画停電の影響で親族が来られるか、余震は大丈夫かなどの不安がありましたが、予定通り実施しました。
  • (4) 家族の人数分の防災リュックを購入しました。震災後に生まれた子供には、地震の怖さ、津波の怖さについて折にふれて伝えています。
  • (5) 海辺に行く時は、津波に備えて高台がどこにあるかをあらかじめ確認しておく必要がある。2011年3月11日のことをいつまでも忘れずに、次の世代、そしてまた次の世代へと伝えていくことが大切だと思います。
  • 山形市 30代 女性 非常勤講師  
  • (1) 会社で仕事中
  • (2) 長かった
  • (3) ガソリン給油
  • (4) 車の燃料が半分になったら、給油する
  • (5) 食糧、水の備蓄が大切
  • 鶴岡市 50代 男性 会社員  
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